批評とはなんぞや その1

   どうも、最近目の敵にされている藤田です。その一例として

Muichkine
藤田さんのパフォーマンスは予想できてるんだよ。
師匠を倒す!みたいな。かっこいいんだよ。古いけど。

そんなこんなで、パフォーマンスとして何をやったらこの戦いで勝てるのか

(あるいは、何をやったらFさんの「突」や、ラルクさんの動画に勝てるのか)

考えすぎて、入稿を前にして、少し壊れてきております。

   のようなゼロアカ参加者からのご意見をお聞きします。しかし、そろそろ僕もふざけるのをやめて、マジにならないといけないでしょう。ふざけてパフォーマンスしている僕、というのは、はっきり言って、注目を集め、読んでいただくための戦略にすぎません。「藤田直哉の二層構造」という冗談のような理論武装もしていますが、ざもすきさんも書かれている通り、内容的にはかなり硬派で無骨で、そしてどう評価されるかは分からないですが、一定レベルの質に達したと思っています。
   その同人誌のあとがきで、僕はこのように書いています。ちょっと自分語り入っちゃって、痛いっちゃ痛いんですが、

とにかく必死で作った。何故必死だったのか、ゼロアカ道場第四関門を突破するため、とか、そういうレベルを超えて、北海道の「ファスト風土化」したニュータウンで地獄を見てい17歳ぐらいの自分のことを思い出し、あの頃の自分が、如何に切実に暴力的なゲームや小説やネットに救いを、「生の意味」を求め、しかしそれは「大人」たちによって、徹底的に馬鹿にされ、否定され、全く理解されない、そんなどうしようもないなかで一人苛立ち、犯罪スレスレのことをしまくりながら「ここから逃げ出す手段は無い」と破滅的に思い込んでいた自分に、25の自分は何を言えるか、東京や大学や他の国や地域を見てきた僕は何を言えるか、彼は何を必要としているだろうか、彼をどうにかする手段は無いのか、彼が「ライン」を超えてしまうほどの絶望感と虚無感と怒りに向かわせる前に、自分が言っておくべきことは何か、彼は何を言われたら救われただろうか、そんなことを考えながら作ったのだが、その「彼」とは、紛れもなくどこかにいるであろう君のことで、届かないかもしれないけど、届いてくれることを願って、僕はこの本を送る。多くの人に感謝を。   藤田直哉 

   というようなことを書いちゃっています。僕が仕掛けておいて言うのもあれだけれど、僕を倒す、論壇プロレス、師匠を越えるとか、キャラ立てとか、その勝負は本当に目的なのでしょうか。上のあとがきは、入稿直前にテンションが上がって書いたとは言え、僕の本音でしょう。僕は「彼等に届ける」ために「パフォーマンスも辞さない」というだけで、決っしてそれで勝負したり「東さんに愛され認められる」ことや「一万部出して印税もらう」ことが、最終目的ではないのだ、ということを言いたいのです。言葉足らずでしたが、早稲田のシンポジウムでも僕が言いたかったのはそういうことで、しかし「金の論理の中で金にならないものを擁護」したり「承認されないものを承認するために自分は承認を得る」とか、厄介なところに踏み込んでいるのも事実で、僕は乖離し、分裂していますね。今。
   批評を書くのは、あるいは文学・小説を書くのは、なんのためか、いったい誰のためか。そこを突き詰めて考えると、結局僕は、「僕のような奴」のために全力で作ったのだ、としか言えず、これを必要だと思ってくれる誰かがいるかもしれない、というかいてくれたら嬉しい、しかし俺は自分のために作ったのだから、売れなくても仕方が無いよな、という状態なのです。
   もしあなたが買いに来てくれたら嬉しい。しかし、結局自分のためでしかないものを、買っていただいて、お金を出していただいて、いいものか。僕はあなたの役に立てばいいと思っている。ただそれだけなんですよ、多分。